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【特集】1960年ローマ五輪代表が日本で51年ぶりに試合出場…平田孝さん(上)
【2011年1月13日】



 1月16日(日)に東京・青少年総合センターで行われる第10回全日本マスターズ選手権に、1960年ローマ五輪のグレコローマン・フライ級で4位に入賞した平田孝さん(法大OB)が出場する。日本におけるグレコローマンのパイオニア。その精神は、米国での牧場経営というチャレンジ精神につながり、実業界でも成功をおさめた。

 同五輪で引退したので(その後、全米選手権の出場はあり)、日本で試合をするのは、実に51年ぶりとなる。日本協会機関誌「月刊レスリング」の1994年10月号に、平田さんを特集した記事があるので、再現してみたい(
右下写真、注=表現を一部手直しし、見出しを追加しています)。

平田さんのホームページ「俺言魂(おれごんだましい)」



 「50歳から新しい青春が始まりましたね。50歳になったら老後のことを考えるのが普通かもしれないけど、それは後ろ向きの姿勢。人生には引退も定年もありませんよ」−。58歳になったローマ五輪代表の平田孝さんは、そう言って胸を張る。

 主に生活する米国では約20万平方メートルの牧場(東京ドーム4個分)を経営するかたわら、オレゴン州立工科大学で教べんをとり、日本では霊友会の活動で全国を回り、子供たちにスポーツ精神を教えている。

 その口調と考え方は、まだ20歳代と思えるほど若々しい。今夏の里帰りでは「ある後輩から、先輩はもう化石ですよ、なんて言われてしまった」と笑う。日本におけるグレコローマンのスタートは平田さん達の世代だ。平田さんがローマ五輪で4位に入賞。翌々年の世界選手権で市口政光が優勝し、東京五輪の金メダル2個につながった。

■戦中、戦後の貧困の中ですごした少年時代

 1936(昭和11)年生まれ。戦中、戦後の貧困の中で育った。その少年の目に、水泳の古橋広之進(当時日本オリンピック委員会会長)が世界で活躍する姿は感動的だった。泳ぐたびに世界記録をつくり、米国選手に堂々と勝つ…。ラジオで聞きながら、自分も世界へ挑戦したい気持ちが出てきた。

 最初に取り組んだのがマラソン。「一番安上がりにできるスポーツだから」。しかし長い距離を走るだけというのは退屈だった。性格的に格闘技に向いていると思い、取り組んだのがレスリングだ。ヘルシンキ五輪で石井庄八が戦後初の金メダルを取り、あこがれたことも影響した。体が小さかったこともあり、(当時は)体重制のない柔道や相撲では無理があった。

 こうして法政二高進学を機にレスリングに打ち込むことになったが、高校時代は15〜16回くらい大会に出て、一度も優勝することなく終わった。それでもレスリングを続ける気持ちは消えなかった。周りは「負け続けてばかりいるのに、なぜ?」と不思議がったが、「最後に勝つことを信じていた」と言う。

 実績がなかったので中大や明大の強豪大学へは進めない。「気楽にやるのもいいだろう」と思って、レスリング部のない法大へ進み、たった1人の部員ながらクラブを作ってスタートさせた。部員が1人なので練習は他大学へ行くことになる。どうせ行くなら強い大学がいい。そこで、水道橋にあった中大のレスリング場を訪れてみた。「世界一のレスリング部でしたから…」。

■法大で部員1人のレスリング部を設立、練習相手を求めて世界一のチームへ出げいこ

 ところが、その気迫に圧倒され、道場の中に入っていくことができなかった。「すごい気迫なんですよ。若い選手がマットにたたきつけられ、壁にぶつけられる。のど輪で押され、窓から外へ落とされた人もいました。その人は泣きながら、また道場へ戻るんですね」。背が低かったので、背伸びをして窓から練習を見るだけだった。

 だが、毎日訪れるので顔を覚えられた。「レスリングをやりたいのか?」「はい」「それなら入れ」。やっと練習できるようになった。その練習には、時たま拓大OBの宮澤正幸さん(現OB会最高顧問)も顔を出していたと述懐する。

 世界一のチームに仲間入りしただけに、実力も順調に伸びてくれた。1958(昭和33)年の富山国体に神奈川県代表として初出場初優勝し、約1ヶ月後にあった全日本選手権へとつながっていく。苦しい練習に耐えられたのは、子供の頃に味あわされた劣等感に対する反発心だった。

 貧乏だったこと(当時は国民の大半がそうだった)に加え、「チビ」「馬鹿」と言われた少年時代。「チキショー」という気持ちが、負けそうになる気持ちを押さえた。

■八田一朗会長からグレコローマンの選手に指名される

 勝つためには反発だけでは駄目だろう。そのあたりを平田さんは「強くなるのは練習量だけではないと思います。集中力と工夫。この2つがないと強くなれません。レスリングは人から教わるものではありません」と言う。監督もコーチもいないところでスタートし、実績をつくり上げただけに、その考えには信念を持っている。「どの世界でもパイオニアと呼ばれる人には、教える人はいなかったはず。自分の力で吸収し、研究し、その地位を築いていったんですよね」。

 こんなパイオニア的発想を持っていればこそ、当時の八田一朗会長にグレコローマンを勧められたのではないか? 1958(昭和33)年の世界選手権のあと、八田会長は「フリースタイルが強くなるにはグレコローマンが必要。だれかやってみないか」と適任者を探した。当時の日本には、グレコローマンはレスリングでないような空気があり、積極的に名乗りを上げる選手はいなかった。

 そこで平田さんに白羽の矢が立ったわけだが、「フリーで勝てないから。グレコに回った」と思われるのは嫌だったので、フリーでも頑張った。全日本チャンピオンにまでなっているのだから、その負けん気はさすがだ。

(続く)

 

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