2011年全日本チーム記事一覧


【特集】1960年ローマ五輪代表が日本で51年ぶりに試合出場…平田孝さん(下)
【2011年1月14日】



1月13日掲載の(上)から続く=日本協会機関誌「月刊レスリング」1994年10月号掲載記事



 ローマ五輪では4位に入ったのだから、断じて「歴史が浅く競技人口の少ないグレコローマンだから日本代表になれた」のではない。本物の実力があったのだ。

 平田さんは、「あの時は金メダルの実力はあったはず」と自信を持つ。日本選手は逃げる相手に強烈な足払い(キック?)をするなどしたため、“東洋の野蛮人”としてジャパン・バッシングがあったのだという。「押さえたのにレフェリーが別の方向を見ていて0点だったり…」

 心の中では金メダルであり。内容には満足した。レスリング一筋だった人生を振り返り、「スポーツ・バカになっては駄目。これからは社会で勝負だ」と現役を引退した。次の地元、東京の五輪を目指す気持ちもなかった。

■マットを降り、米国で第2の挑戦をスタート

 第2の人生をスタートさせるにあたり、「世界一の国で修業しよう」と思っていた平田さんに、ニューヨーク在住の青木広彰氏(ロッキー青木)の誘いがあった。そのアパートへ転がり込み、英会話から始まってのマット以外での挑戦がスタートした。

 マットを見ると血が騒ぐ。地元のチームに誘われてコーチし、大会にも出るようになった。全米選手権優勝に出て優勝の経験もある。しかし悲壮感はなく、趣味の感覚でのレスリング活動だった。

 東京五輪に国際審判員として参加したあと、法大の講師をしながらレスリング部の監督を引き受けた。夏には米国のサマーキャンプにコーチとして参加。日本に9ヶ月、米国に3ヶ月の生活だった。1987(昭和62)年にオレゴン州立工科大学の客員教授として(その後、教授へ)再び米国に渡り、日米在住の比率はちょうど逆になった。

 そして貯めた資金で前述のような広大な牧場(といっても日本の感覚でのことであり、米国では小さい方らしい)を買い、牧場主としても活動することになった。「米国に住む人にとっては、牧場を持つのは夢なんです。自分の職業は大学教授ではなく、牧場主と思っています」とのこと。

 広大な牧場に馬や牛を放牧し、自然の中でエサを摂らせる…。一見、自由気ままにやってうぃるようだが、「とんでもない。日本人は米国の自由をはき違えています。野生の動物が病気にかかったりして、いろんな事態が起こる。それらに責任をもって対処しなければならない。自由には義務と責任があり、続けるには努力が必要」と強調する。

■スポーツを教えるのではなく、スポーツ精神を教える

 霊友会との出合いは、第2の青春を考えていた50歳の時だった。久保継成理事長(当時会長)と会い、その理想を聞いて共鳴を覚えるものがあった。現在の自分があるのは両親のおかげであり、さらにその両親のおかげ。すなわち先祖に感謝するべきだという仏教の教えである。

 平田さんも、自分の人生を型作ってくれたのは八田一朗会長であり、他の武道から馬鹿にされながらも必死に努力して今のステータスを築き上げてくれた先輩達がいてこそ、今の自分があると思っている。霊友会の思想と一致するものであり、これが縁でたずさわることになった。

 今夏の帰国では、休日もなく全国を飛び回り、霊友会のスポーツ道場に集まった小学校4年から中学3年までの子供達に「スポーツ精神」を教えている。「スポーツを教えているのではありません。礼儀、チャレンジ精神、和…。こうしたことを身につけさせ。世界で通じる子供達をつくりたいです」

 それらの指導は、八田会長がやっていたことでもある。「(八田会長は)礼儀作法などには厳しく、世界で通じる紳士たれ、ということを要求していました。どの社会でも通じる人間にならなければなりません」−。

■船頭が多いと船は沈む! 強い統率力を持ったリーダーが必要!

 米国人に馬鹿にされずにやってこられたのは、八田会長のおかげいう平田さん。1983(昭和58)年に八田会長が没したことをもって、レスリング活動の表から身を引いた。頼まれれば少年の指導もするし、レスリング・シューズをはくと気が引き締まるので、常に携帯しているが、日本レスリング協会とはノータッチ。

 しかし、最近の低迷は気にかかる。「オレについてこい式の、いい意味でのワンマン体制が必要ではないでしょうか。集団合議では前へ進まない。“船頭多くして、船、山に登る”ということわざがあるけど、山に登ればたいしたもの。現実は沈んでしまいますよ」。

 日本レスリングを愛する気持ちは消えていない。


 

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