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【特集】アジア大会を辞退してまでこだわった96s級へ再挑戦! 下中隆広(中京学院大クラブ)
【2011年4月23日】


(文=増渕由気子)



 昨年11月に行われたアジア大会(中国・広州)に、同年フリースタイル120s級世界選手権代表の下中隆広(当時国士舘クラブ=現中京学院大クラブ、右写真)の姿はなかった。五輪と同じ4年に一度の祭典に際して出場権利があったものの、“一身上の都合”で代表を辞退した。

 その約1ヵ月後の全日本選手権。2012年ロンドン五輪への闘いの火ぶたが切って落とされ、下中は96s級にエントリーしていた。アジア大会を辞退してまで、階級を変更した下中の真意とは――。

■パワーアップが目的で階級アップ

 下中は徳島県出身で、池田高時代には高校四冠王に輝き、国士舘大へ進学した。しかし、負傷もあって学生時代にビッグタイトルはなし。負傷も回復し、同大学の大学院への進学をきっかけに96kg級から120s級へ階級をあげた。「96s級では力が足りなかったので、120s級に階級を上げてパワーをつけたかった」と当時を振り返る。

 階級アップに踏み切ると、器用な下中はすぐに頭角を現した。2009年9月の新潟国体で、前年全日本王者でありアジア選手権3位の荒木田進謙(当時専大)を破って優勝すると、3ヵ月後の全日本選手権でも初優勝を達成
(左写真)。昨年のこの大会でも荒木田を破って優勝し、120s級3年目にして世界への扉を開いた。

 大学院では「スポーツバイオメカニクス」を研究した。座学での知識も反映させたトレーニングを積むことで、下中の体は完全に120s級化。満を持してアジア選手権(インド)や世界選手権(ロシア)へ飛び出していった。

 だが、下中を待ち受けていたのは、“挫折”の二文字。海外ではまったく歯が立たなかった。「少しも勝てる要素がなかった。オレってニセモノの120s級なんだな…」という思いがよぎった。180cmと日本では恵まれた体格も、「世界に出たら180cmでもドチビでしたよ…」。すべてにおいて世界の壁を味わった。

■アジア大会出場よりも、適正体重で世界で勝ちたい!

 それでも、すねてレスリングを投げ出すことはできなかった。気がつけば大学を卒業してから3年が経ち、多くの同期の選手がマットを去っている。その中で下中は大学院を卒業し、この4月からスポーツ専門指導員として岐阜県体育協会に就職。中京学院大や母校・国士舘大を中心に充実した練習環境が整っている。

 「自分はまだ続けられる環境がある。国士舘だったり岐阜だったり。いろんな方々の力でチャンスをもらって競技をやらせていただいているんです」。世界選手権が終わった直後、挫折からはい上がるために下中が選んだことは、階級変更だった。「身長180センチの96s級でも、高い壁だと思う。でも、今からできる最大限の適正体重です」。
(右写真=昨年の世界選手権で惨敗した下中)

 ロシアから帰国した直後から96s級へ肉体改造を実行。周囲の「アジア大会後に階級変更」というプランに耳を貸さず、日本協会には大会辞退を報告した。下中の意思は固かった。「120s級で精いっぱいやってきて、体重は115kgまで増えていました」。120s級の日本代表である以上、1ヵ月後の国内戦を気にして96kg級を目指した減量をしながらアジア大会に臨むことは、“まっすぐな男”下中にはできなかった。120s級で培ったパワーを生かすために、筋力を落とさない減量方法を心かげ、3ヶ月かけてじっくりと肉体改造を行った。

 96s級の復帰戦となった全日本選手権では、2回戦で下屋敷圭貴(NEWS DELI)に黒星。勝負の厳しさを思い知らされたが、世界で一番の挫折を味わった下中の気持ちは切れていない。「96s級で、今度こそ軽量級みたいに活躍してみたい。全日本選抜選手権では、1勝、1勝重ねていきます。その中で、120s級でやってきたことを見せられたいいですね」。下中の決断は吉と出るか―。

 

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